朝も早よから

ここんところブログを書くのが午前中になっているわ。(・Д・)ノ
夜に映画見るのが習慣になってきたので、夜に書いていたブログは、押し出されるように午前中に。(笑)

それで、今回は萩尾望都の漫画について。
萩尾望都の漫画って、2つの対立する比較の描写と気がついたんです。
きっちり規則正くするキャラと自由奔放なキャラ。
女と男、若者と年寄り・・・
ただ、相容れないもの同士が、互いに理解しあって、相手を理解する、というふうには簡単には描いてないんです。
「半神」でいえば、ユーシーは可愛いんだけど、おバカ。ユージーは醜いけど、頭がいい。
ユージーは、見た目が天使のように可愛いユーシーのために、貧乏くじばかり引かされる。
13歳になって、このままでは2人とも死んでしまうので、切り離す手術をすることになる。
その時、ユージーの方は「きせきだわ! あぶない手術? かまわない!」と、妹が手術のせいで死んでもかまわないと自己中心で思っているのです。
術後、あんなに嫌っていた妹に会うと、醜く干からびていて、前までの自分のようになっていた。
「これはなにかのトリックか 死んでいくのは自分じゃないか」
と言わせ、あんなに嫌っていた妹と同じ姿の自分を見たときに、
「わたしはわからなくなる だれ? あれは」
そして、ラストに
「愛よりも もっと深く 愛していたよ おまえを 
憎しみも かなわぬほど 憎んでいたよ おまえを
わたしに重なる影ー わたしの神ー」

片方が無くなって初めて、その存在に気づく、萩尾望都の漫画に共通するテーマと思っています。
それが原作ありの「百億の昼千億の夜」においても、終章で阿修羅と杖しか戻らず、シッタータとオリオナエは「わたしの内にある」と描いている。

二極化は分かりやすい反面、同じパターンになりやすいのですが、それを感じさせないストーリー展開は素晴らしいものがあります。

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